ふと、奥さんに言われて、どっちが正解とか。。コレが一般的とか。。よく分かりませんでしたから、ちょっと調べ物。
障子の引き手の位置や左右の障子の前後ろ。
今は、障子を閉めた際に両サイドに引き手があり、右手前に取り付けてあります。
ことばの風景 右か左か… 建具の謎
小沢 康甫
あらためて自宅の建具を眺めてみよう。襖や障子はそれぞれ2枚組み合わせ(2枚立て)である場合、向かって右を手前にしているはずだ。これを「右手前」と呼ぶ。その理由を 広島市内の表具店に尋ねてみたが、「2枚立ての左右を証明するものは見当たりません」。障子といえば、今は格子状の骨組みに白い紙を貼った「明障子」を指す。しかし、障子は本来、「遮るもの」の意であり、衝立障子・板障子・衾障子・明障子などの総称だった。最初は衝立式で奈良時代の文献に記録されてい
る。次いで柱間にはめ込んで固定した板障子が出現した。しかし、これでは通り抜けることができず不便である。そこで工夫されたのが通り抜け可能な「鳥居障子」。鴨居と敷居の間に2枚引違いの障子を立てたもので、開閉用の引き手がつく。衾障子(後に「襖」と書く)ともいい、遅くとも10世紀前半(平安中期)には現れている。明障子の出現は平安末期であり、障子の中では最も新しい部類に属する。では、こうした引違いの建具はいつ頃、右手前になったのか。時代は下るが、鎌倉末期の絵巻物『春日権現験記』に住まいの様子が克明に描かれている。そして随所に右手前の襖が確認される。この時代、仮に右手前が普及していた、とするならば、その背景に何があったのか。空想をたくましくすれば、着物の合わせ方にヒントを得て建具を「右へならえ」させたのでは、と推測される。2枚の建具を着物に見立てれば、右手前は右の襟を手前にして合わせる着物とそっくりなのだ。
着物の襟合わせは719年の衣服令で、庶民にいたるまで右前にするよう命じられた。この右前は平安時代に入って徹底する。襖は上記のとおり、平安中期までに出現した。当時、人々は新顔の襖をどう合わせるべきか、で迷っていた。そこに願ってもないお手本があった。右前の着物である。模倣は瞬く間に広がり、やがて襖は右手前が当たり前となる。さらに明かり障子など、ほかの引違い建具も右前に追随していった――。
右手前の誕生について、広島大学大学院の三浦正幸教授(建築史)は17
世紀に発明され、18世紀に普及した雨戸の関与を指摘する。雨戸の普及前、家の内外を隔てる建具は、外側から順に板戸、板戸、明障子だった。敷居には3本の溝が通っていた。夜間は板戸で閉め切り、昼間は板戸1枚を繰って片側を採光用の障子とした。この場合、板戸2枚のどちらを手前にするのか、まちまちだった。ところが戸袋に収納する雨戸が広まると、板戸2枚で使っていた、敷居の2本の溝は1本で間に合う。そこで、障子を2枚組で使用するようになり、部屋から見て障子のどちらを手前にするかが問題になった。当時既に、着物の左前は縁起でもない、とされていたため、当然、障子も右手前にしたのだという。
右手前は伝統の建具に限らない。明治末期から本格的に製造が始まった窓ガラスも右手前だ。ヨーロッパの窓は縦長なので引き戸式の場合、上げ下げの形
式をとる。したがって左右に開閉しない。これは建築構法の違いに由来する。ヨーロッパの建物は石やレンガを積み重ねる組積(そせき)造りで、開口部を広くとると壁の重みの負担が大きくなるため、窓の幅が制限され縦長になる。一方、日本の伝統建築は木造軸組構法で柱に梁を架けるため、水平方向に開口し、窓は横長になる。そこで左右引違いの形式をとる。窓ガラスの右手前は、
舶来モノを日本の流儀で吸収・同化させてきた歴史の一端をも語りかける。
今の取り付いている状態が、普通?一般的??な取り付け方ではあるみたいですが。。
まぁ。。「和服の(男女とも)右前(襟)」に由来しているんじゃないかということらしいです。
「それをきちんと判った」上で 左側を頻繁に開ける場合に使いやすいように「左手前」にするのは、アリなんじゃないかなぁ。。ては思います。
簾の内掛け、外掛けと一緒ですね。外掛が一般的だけど自分の使用条件に合わせて調整してあげればよいっちゅうことです。